わたしは昔、ハードワーカーで手帳を用事でびっしりにすることが大好きだったひと。

仕事もいっぱい入れて、つめつめ。

やりたいことは、限られた時間に詰め込むタイプ。

 

いったん病気して動けなくなって強制終了が起きても

少し動けるようになるとまた予定をつめていて

 

もう、わたしのパターンだな

 

っておもっていた。

 

そんなわたしと向き合ってた時の手帳の中を記しておこうとおもいます。

 

 

 

1、ゆっくりする時間がもったいない

2、頼まれごとを断れない、つい引き受けてしまう

3、誰かに必要とされていたい

 

などなどいろいろあがってきてた。

 

 

 

1、ゆっくりする時間がもったいない

無駄な時間を過ごしているような気になる。

この時間でできる生産性みたいなものを追い求めてしまう。

当時育児と仕事で忙しいからこそ空いた時間はカラダを休めればいいのに

というかカラダは休みたいと言っているのに完全無視。

その生産性を追い求めたい気持ちは強迫的ですらあったと思う。

生きていて無駄なことなんて一つもないはずなのに、

というか、無駄でもいいはずなのに

無駄なことはいけないこと、ってジャッジしてた。

 

こどもたちを見ていると、大人から見たら一見無駄なことの遊びの中で過ごしている。

遊びの中に学びがある、、って書こうとおもったけれど

もはや学びとかどうでもいいんだこどもたちって。笑

ただただたのしい、それでよし。

 

そんな自分がいるだなんて幸せなことこの上ないのに。

 

ついでに言うなら、楽しくなんてなくたって本当はいい。

 

楽しまなきゃダメ

好きなことがないとダメ

幸せじゃないとダメ

 

とか、いつのまにか刷り込まれている。

 

ただただ生きてる、それだけでも充分なのにね。

 

 

 

2、頼まれごとを断れない、つい引き受けてしまう

あの頃のわたしの口癖

<だいじょうぶ!>

全然大丈夫じゃないのに。笑

カラダきてるのに、、笑

 

それやるの、わたしじゃなくてもいいよねそれ

っていうことまで引き受けていた。

 

 

最近は頼まれた時に心の底から引き受けたいと思うこと以外は断れるようになった。

でも、断るのって怖いんだよね。

なぜなら、自分も断られるのが怖かったし、いやだった。

用事を断られただけなのに存在を全否定されたかのような感覚。

 

わたしの周りってそんなに冷酷なの?って周りにも失礼だし

 

わたしって、そんなことで全否定されるようないのちなの?

って自分にも失礼だ。泣

一番はそこ。

 

あとこれは、自分をすり減らすどころか周りの能力まで奪いかねないという悪循環、、、

もっともっと心からそれをしたい!っていう人が居たりもする。

そういう人たちに輝いてもらったほうがよっぽど好循環。

 

 

3、誰かに必要とされていたい

誰かの役に立つってうれしいよね。

でも、役に立つとか立たないとかで人の価値って決まらないしそんなものでは測れない。

なんなら価値なんてものもない。笑

 

ただ生きてる。それだけ。

みんなみんなそう。

 

さっきの、無駄なことは生産性のないことはいけないこと

としてしまうことと同様。

 

そういうときは、書き出してみるといい。

 

こんなわたしは○

こんなわたしは×

って。

 

×つけた条件は実はめーっちゃやりたがってることだったりするから。

我慢しておさえてたりね。

 

そして、それはだれかに対しても否定の種にしている、、、。

 

だからまず自分が自分に対してどう思うのかを見つめてみる。

 

 

 

 

 

全ての根底にあったのは

このちいさなちいさな脳みそで狭くるしい視野で判断している

理想的な生き方にそぐわないわたしは愛されない

 

っていうことを無意識に証明したがる。

理想的な生き方、すなわち誰かに必要とされたり役に立ったりすること。

 

 

役に立つことや必要とされること喜んでもらえることは紛れもなくうれしいことだし

生きていてよかったなと思う瞬間。

 

 

でも、いつのまにか

それだけを大事にして

自分をおいてけぼりにしていたわけだ。

 

 

 

気づけばそれをしている時がいまだにあって

 

ざわざわしたり不安になったりする。

 

理由のない焦燥感に押しつぶされそうだった期間もあって

 

その正体は

 

自分の存在意義をそうやって誰かに明け渡していた。ってこと。

 

ざわざわしたり不安になったときは、まずはじめにそれを自分に問う。

 

そして、明け渡されてた存在意義を取り返す。

 

それこそ自分に失礼すぎて、本当にごめんって思う。

 

自分が自分を存在させられていたらそれでいいはずなのに。

 

 

 

友達に、恋人に、仕事に、、、、

 

たくさん自分の居場所を探してた。

わたし、ここにいていいのかなってよく思ってた。

 

そして

 

今、パートナーと別居婚を実験中。

 

というのも

 

友達や周りに対して明け渡すことが減ったわたしは気づけばその対象をパートナーにしていたことにきづいてうまくいかない日がつづいたときがある。

もうほんとに相手にイライラするしムカつくしうまくいかなくていっぱい泣いた。

 

でも、書き出してみた怒りは、ぜーんぶ自分自身への怒りだったし自分とのコミュニケーション不足。

 

 

パートナーとの生活の中にいる自分をすっかり愛せなくなってた。

 

そりゃそうだ、わたしが生きてていい、っていうことを相手に丸投げしてたんだから。

 

しかもお互い。

 

無意識に、、、こわすぎ。

 

これはあまりよくない依存だなって思った。

 

誰かに頼ることと、自分の存在意義を明け渡すことはちがう。

 

 

 

だから

良好な関係を保つために

見守ってもらう役目は誰でもなく自分しかできなくてそこを育てあってる。

そう、誰かとの関係って、自分とじぶんの信頼関係がないとうまくいかないんだなってよく分かったから

 

心地いい距離感で、まずは、そこを大事に育んでる。

 

 

 

 

そしてそれを続けたら、うそみたいに仲良しが戻ってきた。

相手をどうにかしようとするより自分との仲直りのほうが断然早い

 

っていうかもう、そうすることしかできないよね。

 

相手にしたいことって、自分が自分にしてほしいことなんだもん。

 

 

もうほんと小さな積み重ねを何年も続けてる。

 

誰かに明け渡してしまいがちな存在意義がわたしに戻ってきたら

 

誰かに必要とされなかろうが、誰かの役に立たなかろうが

ぜんぶ、それでよし、生きてたらよし。

 

になっていった。

 

なんのために生まれてきたんだろう

たぶん、そんなこともないんだとおもう。

生きたいように、生きたらいいはずなのに。

お役目とかもいらないよ。

それが魂がよろこぶことならやればいいだけの話。

 

 

何回自分と約束したって、なにかの拍子に手を離して迷子になってたんだよねきっと。

 

それがダメなんじゃなくて、

それに気づいて、何度でも仲直りしていったらいいっていうこと。

 

いいとこもわるいとこもぜんぶまるっと受け入れながら

泣いて笑ってしながらも家族ってつくられていくけれど

 

おいおい、自分が自分の一番の家族になってあげられてなかったじゃないかって反省したもの。

 

 

 

そうして出来た手帳に休みマークをつける習慣、4年間積み重ねていてそこにときめく時間や、ほっとする時間をいれてあげている。

 

だらだらぼーっと過ごすこともそのひとつ。

 

 

 

強烈に

誰かに必要とされたかった

誰かの役に立ちたかったわたし

 

本当は

わたしに、必要とされたかったし、わたしの役に立ちたかったんだ。

 

仕事だったり、誰かとの約束だったり、、パートナーとのことだったり

いろんなことを経て、ぶつかる問題ってこれだったし

 

 

 

そのせいでキャパをこえてまでしてきたことをひとつひとつ手放してラクになったり、また癖がもどってきたり

外側の出来事のおかげで、それに気づけてよかったし

 

ゆっくりゆっくりいきますよ。

 

自分の存在意義を明け渡さないっていうのは

自分の手を離さないであげるってことなんだ。